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2007年6月8日
学生時代、あるビデオを観て、衝撃を受けたことを覚えている。そのビデオの名前は「グッバイ・ヒーロー」。モーターレースに命を捧げたドライバーたちを綴った映像が中心になったビデオだった。その中でも、とりわけボクの心を打ったドライバーが、ジル・ビルヌーブだった。
ジル・ビルヌーブは、F1が始まった1950年にモントリオールで生まれたフランス系カナダ人である。英雄には数々の伝説がある。まず、1977年。フォーミュラ・アトランティックにゲスト参戦していたジェームス・ハント(76年にマクラーレンでワールドチャンピオン)の推薦で、ジルはその年のイギリスGPでデビューする。その走りが、フェラーリの創始者であるエンツォ・フェラーリの心を揺さぶり、その年の秋のカナダGPでフェラーリ入りを果たす。
その翌年、モントリオールに新設されたサーキット・イル・ノートルダムで開催されたカナダGPでF1初優勝を果たすのだった。この優勝でジルはカナダの英雄になっただけでなく、イタリアのティフォシたちにも認められ、愛されるようになるのである。
さらに79年のオランダGPではレース中にリアタイヤがパンクして、スピン。普通なら、そこでレースをリタイアしても不思議はなかったが、ジルは3輪走行になりながらも、レースをあきらめずにピットへ向かい始めるのである。しかも、単なるスロー走行ではなく、コーナーではカウンターをあてながらの激走だった。
81年にハラマで行われたスペインGPでは、1位から5位までの5台が約1秒半の間でしのぎを削る激戦となったが、ジルは巧みなドライビングで2位以下を見事に抑えて優勝。2位とのタイム差は0.21秒差だった。
そして、82年。ゾルダーで行われたベルギーGPの予選中に発生した事故により、ジルは還らぬ人となる。グッバイ・ヒーローにはその時の生々しい映像が残されており、それはそれまでボクが見たどんな映像よりも、衝撃的なものだった。
その後、サーキット・イル・ノートルダムは、サーキット・ジル・ビルヌーブと改名され、そのスタートラインには、ジルに捧げる言葉が記された(写真06.08-1.JPG)。
Salut Gilles(ハロー、ジル!)
カナダ人ドライバー不在の中でスタートした今年のカナダGP。しかし、カナダ人の心の中には、いまもヒーローが生き続けている。
次回、GP Diaryは6月9日に更新の予定です。
お楽しみに。
アップライト
2007年6月9日
金曜日午後のフリー走行2回目、2種類あるタイヤの比較を行うため、ロングラン走行を行っていたヤルノに異変が訪れたのは、トータル14周目の周回に入っていたときだった。3つめシケインの進入(ターン8)で縁石に乗り上げた瞬間、ヤルノの右フロントタイヤが跳ね上がってしまったのである。原因は、右フロントサスペンションとホイールの接合しているアップライトという部品が損傷したためだった。右フロントタイヤが浮き上がり、3輪走行になりながらも、ヤルノはTF107をピットに帰還させた(写真上-左)。
チームはすぐさまチームメートのラルフの走行を見合わせ、ガレージの奥に引っ込んで、50分間にも及ぶ緊急対策会議を開いた(写真上-右/会議を終えた後もエンジニアと話し合いを続けるパスカル・バセロン・シャシー部門シニアゼネラルマネジャー)。そして、セッション終了まであと10分というところで、まずラルフがコースイン。続いて、右フロントのアップライトを交換したヤルノもコースインするのである。しかし、ヤルノのクルマはこのセッションのベストタイムを記録した直後に再びトラブルに見舞われ、ピットインを余儀なくされてしまうのである(写真下)。しかも、場所はまったく同じ3つめのシケインだった。
「現時点で原因が特定できていないため、はっきりとしたことは申し上げられませんが、このアップライトはカナダ用に仕様を変えたものではなく、今年前半戦で使用して耐久性に関しては確認が取れているものです。製造工程でなんらかの不具合があった可能性があるかもしれません……」(新居章年テクニカルコーディネーション担当ディレクター)
パナソニック・トヨタ・レーシングはこれまでも何度かカナダGPで痛い目に遭っている。04年はレースで入賞したにもかかわらず、ブレーキダクトに問題が発覚して、失格処分。05年はヤルノが終盤3番手を走行しながら、ブレーキが破損してリタイア。今年、スペインとモナコでさまざまなトラブルに見舞われ、悪い流れで迎えたカナダGPのパナソニック・トヨタ・レーシング。3度目の悲劇にドライバーが襲われないように、チームはしっかりとした対策を施して、予選とレースに臨んでほしい。
次回、GP Diaryは6月10日に更新の予定です。
お楽しみに。
ターン8
2007年6月10日
なぜ、ヤルノのアップライトが破損したのだろうか。初日のフリー走行後、パナソニック・トヨタ・レーシングのスタッフたちは、緊急対策会議を開き、議論を重ねた。まず調査の結果、製造上の問題ではないことが確認された。さらにカナダGPで使用しているアップライトは、今季これまでほかのグランプリで使用してきたものと同じ仕様だったので、デザイン上の問題でないことも確認された。また02年からF1に参戦しているトヨタは、今回が6回目のカナダGPだが、これまで一度もアップライトに問題を抱えたことはなかった。
そうなると考えられるのは、去年から今年にかけて変化した部分。それはフロントサスペンションの角度だった。今年のTF107はモノコックのフロント部分が少し持ち上げられている。したがって、フロントサスペンションを正面から見たとき、「ハ」の字のように見える独特の取り付け方が施されている。これにモントリオールのサーキットに合わせたセッティングを行うためにキャンバー角をつけると、ある一定の応力がサスペンションにかかったとき、アップライトとロワアームが干渉してしまうことが推測された。
では、なぜヤルノにトラブルが出て、ラルフには出なかったのか。それは前述のように「ある一定の応力」がヤルノの走行時に発生したのである。それは、ターン8にあるシケイン通過時に発生した。このシケインは縁石の内側にショートカット防止用の枕木のような突起物がある独特の形状をしていた。ヤルノのドライビングは、その縁石を大きく乗り越え、右前輪を突起物に接触させるほど激しくシケインを攻める走りだった。ラルフも縁石には右フロントタイヤを乗せるが、乗り越えるほどではなかったため、トラブルには至らなかったと推測されたのである。
会議は深夜11時まで続き、その後ドイツ・ケルンのTMGとの連携を取りながら、メカニックたちが作業を終えたのは、2時を過ぎていたという。チームが出した結論は、ターン8の縁石を乗り越えないことだった。そして、もし再びトラブルが発生すれば、予選とレースへの参加を見合わせることも選択肢に入れていたという。
その中で、予選で10番手と18番手に終わったヤルノとラルフ。ターン8を攻めることができなかった2人を責める気にはなれなかった。
次回、GP Diaryは6月11日に更新の予定です。
お楽しみに。
枢要
2007年6月11日
ひとりのエンジニアが、チームを去った。冨田務チーム代表である。1943年に愛知県で生まれた冨田は、1969年にエンジン技術者としてトヨタ自動車に入社。それから20年後、冨田はル・マン用エンジンや世界ラリー選手権用エンジンなど、トヨタのすべてのレーシングエンジンの総括責任者として、トヨタのモータースポーツを牽引するようになる。
数々の成功を収めた冨田に、トヨタが任を託したのは、F1プロジェクトだった。そのプロジェクトを一から起ち上げ、当時は困難だと思われた車体とエンジンをひとつ屋根の下で開発するオール・トヨタ体制でプロジェクトを推し進めるのである。しかも、ファクトリーは当時F1チームが存在せず、「不毛の地と揶揄された」ドイツ・ケルンだった。さらに、今回立ち向かおうとしている相手は、世界最高峰の自動車レースであるF1。フェラーリ、マクラーレン、ウイリアムズ、ルノー、BMW……これまでとは比べものにならないほど歴戦の強者がトヨタの参戦を出迎えていた。
最初の3年間は、苦労の連続。ようやく、光が見えてきたのは、TMGに冨田が常駐するようになった、03年の7月から約2年が経った05年シーズンだった。マレーシアGPで初めて表彰台に登壇するのである。そしてこの年、冨田にとってもうひとつ忘れられない事件が発生する。アメリカGPで発生したタイヤトラブルである。自らのチームに発生したトラブルと、各チームとの調整に奔走した冨田。ドライバーと観客の安全を優先して、時にミシュランに対して激高することもあったという。そして、冨田が下した決断はレース棄権だった。トヨタのモータースポーツを牽引してきた冨田にとって、それは苦渋の決断だった。
しかし、欠場したことに対する世間の反応は冷たかった。だが、安全に勝るものはないという冨田の信念に揺るぎはなかった。1週間後、パリの国際控訴法廷での聴聞会でも冨田はモータースポーツの安全性を主張。裁判所の判断は、無罪だった。
あれから2年が経った。その冨田の最後のF1グランプリとなったカナダGPで、皮肉にもチームに再びトラブルが発生する。金曜日のフリー走行でヤルノのアップライトが2回連続で破損するのである。金曜日の夜、チームは原因をほぼ解明。同じトラブルが発生しないような対策を施し、土曜日の予選に臨むことなった。しかし、モータースポーツに絶対はない。もしかすると土曜日以降、再び問題が発生することも考えられた。そして、そのときは予選への参加を辞することも、冨田は視野に入れていたという。
エンジニアとして、チーム代表として、最後のレースとなったカナダGP。残念ながら、悲願だった優勝を果たすことはできずに終わった。最後のレースを前に開かれたチーム主催のお別れ会で、冨田はチームのスタッフ全員に、こう言った。
「私は優勝することはできなかったが、君たちならきっとできると信じている。そして、いつかその日が来ることを、今度は日本で、富士から見守っているよ」
F1では無冠に終わった冨田。しかし、彼がチームに、そしてF1界に遺したものは、勝利に負けないくらい枢要なものだったと、ボクは思う。
次回、GP Diaryは6月15日に更新の予定です。
お楽しみに。