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Rd.07 アメリカGP

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リスク

2007年6月15日

「もしも、彼が10年前にF1を走っていて、あんな事故に遭遇していたら、助かっていなかったかもしれない」

かつてFIAのオフィシャルドクターとして、さまざまな事故に遭遇し、その現場で数多くのドライバーの救出にあたってきたシド・ワトキンス博士。今回のアメリカGPで、久しぶりにサーキットの現場に姿を見せたワトキンス博士は、そう言った(写真左)。「彼」とは前戦カナダGPのレース中に大クラッシュしたロバート・クビカ(BMWザウバー)のことである。04年にレースドクターの職を辞したワトキンス博士は、その事故を自宅のテレビで見ていたという。そして、壁に当たっていく時の角度と、飛び散ったパーツの分散の仕方を見て、最悪の事態には陥らないだろうと直感したという。

現在のF1カーは、年々強化されるサバイバルセルの強度によって、モノコックは10年前とは比べものにならないほど頑丈になった。それとともに、モノコック周辺に装着されているさまざまなパーツが、衝突した際に衝撃吸収材として機能し、モノコックへの衝撃を吸収する役割を果たしている。モータースポーツに事故はつきものである。そのときのリスクを考えて、FIAはクルマを作る際の技術的なレギュレーションに手を加え、ウォールの角度やタイヤバリアの配置など、サーキットにもさまさまな工夫を施している。そして、今回クビカの命を救ったのは、まさにそれにだった。パーツが激しく飛び散り、クルマが横転したことが、衝撃を分散させたとワトキンス博士は分析した。

ワトキンス博士の言うように、その後クビカはヘリコプターでモントリオール市内のサクレクール病院に運ばれたものの、奇跡的に身体にはほとんどダメージはなく、レース翌日の月曜日には退院。自分でクルマを運転してホテルへ帰ったという。そして、アメリカGP開幕前日の木曜日に、サーキットに元気そうな姿を見せていた。モノコックのフロントバルクヘッド(ノーズコーンとモノコックの境にある隔壁)が割け、両足が見える状態でクルマが止まっていたことを考えれば、捻挫だけで済んだのは不幸中の幸いだった。しかも、右足に負った捻挫はたいしたことがなく、木曜日には「パドックを自由に歩ける」(クビカ/写真右)ほどに回復。週末のレース参加に意欲を見せていた。

しかし、インディアナポリスで再度メディカルチェックを受けたクビカに、FIAの医療担当者とインディアナポリス・モータースピードウェイの医療責任者は、アメリカGPへの出場許可を出さなかった。インディアナポリスでクビカがクラッシュする可能性がゼロではない。そのリスクを考えて、出場を見合わせたのである。

「残念だが、FIAの決定は尊重する」とコメントしたクビカ。レーサーから走ることを奪うことは酷な決定だが、命まで奪われたわけではない。命の尊さを優先したFIAの努力と今回の決定を、ボクも尊重する。

次回、GP Diaryは6月16日に更新の予定です。
お楽しみに。

aftereffect

2007年6月16日

「ドライバーならだれでも、自分が事故にかかわったときは、そのことが気になるものさ。特にあのように、事故を起こしたクルマが粉々になってしまうような、ひどい事故の場合は、レースに集中するのは難しいものだよ。ロバート(・クビカ)の容体がどうなのか、レースが終わるまで気になってしょうがなかった。たぶん、それは僕だけじゃなく、ほとんどのドライバーが同じだったと思う」(ヤルノ)

カナダGPで起きたクビカの大クラッシュ。そのクビカの直前を走行していたのはヤルノだった。1回目のセーフティカーが出動した後、ピットロードの閉鎖状態が解けた直後に複数のドライバーがピットイン。先頭で
ピットインしたフェリペ・マッサ(フェラーリ)と、そのマッサに続いて2番目でピットインしたジャンカルロ・フィジケラ(ルノー)は、先を急ぐあまり、ピットレーン出口にある赤信号を無視して、コースインしてしまう。

その2台の後ろにいたのが、クビカだった。ただし、クビカはマッサとフィジケラとは異なり、ピットレーン出口で停止。信号が変わるのを待っていた。そこに後方からピット作業を終えてピットレーンを走行するヤルノが迫ってきた。ちょうどそのとき、信号が赤から青に変わるのである(写真下左/手前のルノーが赤信号でコースインしてしまったフィジケラ。その向こうに見える白いクルマがクビカで、その背後にヤルノがいる)。すでに加速しているヤルノは停止状態から加速し始めたクビカを抜いてコースイン。ポジションが入れ替わる(写真下右/レース再開直前のヤルノとその背後に迫るクビカ)。

そして、レースが再開。ヤルノにポジションを奪われたクビカは、再開直後に挽回すべく、ヤルノに迫って3つめのシケインに進入した。

「シケインを立ち上がったとき、ヤルノの左側にスペースがあったんだ。でも、そのあとは緩やかな左コーナーになっているので、当然ヤルノは左側を閉めてくるだろうと考えて、僕は彼の右側に出たんだ。でも、彼は左側にクルマを寄せるようなラインを取らなかった。そして、僕が予想していたよりも、右側に膨らんできたんだ。そして、僕のフロントウイングがヤルノに当たって、宙を舞ったというわけさ」(クビカ)

背後から衝突のショックを受けたヤルノ。その直後にそのクルマが大クラッシュしたのである。ヤルノが動揺するのは、無理もない。あれから1週間。クビカがいないアメリカGPは、ヤルノにとっても辛いグランプリだろう。でも、いまヤルノにできることは、気持ちを切り替えて走りに集中すること。レースをすることである。なぜなら、キミは走るために生まれてきたレーサーなんだから。おそらく、クビカもそう願っていると思う。

次回、GP Diaryは6月17日に更新の予定です。
お楽しみに。

インディ・マスター

2007年6月17日

オーバルコースにインフィールドセクションを組み合わせたF1専用サーキットを新設し、アメリカGPがインディアナポリス・モーター・スピードウェイで復活した2000年、インディアナポリスを制したのは真紅の跳ね馬だった。翌年の01年はその年限りでの休養に入ることを宣言していたミカ・ハッキネン(マクラーレン/翌年、正式にF1からの引退を発表)が、F1生活最後の優勝を飾るという劇的なレースが展開されたが、その後5年間はフェラーリの天下が続いた。

02年はライバルチームを大きく引き離し、独走を続けた2台の跳ね馬がファイナルラップで並走しながらゴールイン。0.011秒差でルーベンス・バリチェロが優勝した。03年はチャンピオンシップを賭けて3人が熾烈な戦いを演じる中でスタート。さらに途中から雨が降り始めるという難しいコンディションとなる中、一時は11番手まで後退していたミハエル・シューマッハが運も味方につけて逆転優勝し、チャンピオンを確実なものにした。

それまでの秋開催から、カナダGPとの2週連続となって初夏の6月に移され、初めて行われた04年は、ラルフ・シューマッハ(当時ウイリアムズ)が最終コーナーでタイヤトラブルから大クラッシュし、荒れた展開となった。その際に出動したセーフティカーをうまく利用したのがフェラーリ。M・シューマッハが先頭でピットインする間、2番手のバリチェロ(当時フェラーリ)が3番手以下をブロックする形でスロー走行。M・シューマッハがトップでコースに復帰し、完勝する。

05年はミシュラン勢にタイヤトラブルが発生し、7チーム14人のドライバーがフォーメーションラップ後にピットインし、レースを棄権。ブリヂストン勢の3チーム6名だけによってレースがスタートする。レース中にスタンドからコースに空き缶が投げ込まれるという異様な雰囲気の中、優勝したのはまたもフェラーリ。その年、唯一の勝利となったにもかかわらず、表彰台のM・シューマッハに笑顔はなく、後味の悪い一戦となった。そして、ミシュラン勢が参加して行われた昨年のインディアナポリスを制したのも、M・シューマッハだった。ミシュラン勢を向こうに回して堂々の優勝を飾った皇帝は、インディアナポリスで7戦中5勝(02年もファイナルラップまでトップを走行しており、事実上7戦中6勝)という高い勝率を残して引退した。

そのインディアナポリスで昨年、注目を集めるレースを展開したのがヤルノだった。予選の第1ピリオドでサスペンショントラブルから20番手に終わったヤルノは、日曜日のレースはピットレーンからスタートする。スタート直後に発生した多重クラッシュにより、ピットレーンスタートの不利を克服したヤルノは、その後1ストップ作戦のアドバンテージをフルに活用して4位でフィニッシュ。ヤルノにとって、このレースが昨年のベストリザルトだった。

じつはヤルノもまたインディアナポリスとの相性がいいドライバーである。2000年こそメカニカルトラブルでリタイアに終わったものの、01年4位、02年5位、03年4位、04年4位と、完走したレースは必ずポイントに絡んでいるのである。インディアナポリスの皇帝ことM・シューマッハが現役を退いた今年。もうひとりのインディ・マスターこと、ヤルノがどんな走りを披露するのか、楽しみにしたい。

次回、GP Diaryは6月18日に更新の予定です。
お楽しみに。

Spot on

2007年6月18日

「タイヤのグリップがなくなってきた。今度はリアだ。リアのグリップがなくなってきた」

ヤルノが無線でそう叫んできたのは、13周目あたりからだった。周回が進むにしたがって燃料が軽くなり、通常はラップタイムが速くなるのだが、13周目のヤルノのペースはそれまでよりコンマ5秒以上も落ちてしまうのだった(写真左)。

以前、木下美明TMG副社長がこう言っていたことがある。「ヤルノは問題がないときは、セッティングには何も文句を言わず、予選で我々が予想もしないようなとんでもないスーパーラップを刻むことがある反面、走っていてクルマのバランスが変わって自分の走りができなくなると、途端にペースが落ちることがあるんです」

確かに表彰台に上がった05年もオーストラリアGPやフランスGPなどで、レース中にヤルノのペースが落ちたことがある。また、昨年もスペインGPで突如ペースが下がり、追いついてきたラルフと接触したこともあった。

カナダGPも、そうだった。肝心の日曜日にヤルノはペースダウンを余儀なくされる。無線で「グリップがない」と不満を言うヤルノに対して、担当エンジニアはほとんど返答しなかったという。というのも、金曜日にアップライトにトラブルが出たこともあり、レースに向けたセットアップが充分ではなかったからだ。

しかし、それではいけないと、今回チームは、もしヤルノがレース中に何か言ってきたら、それをただ聞き入れるだけでなく、何でもいいから言い返すように指示が出されていたという。孤立させずに、檄を飛ばせということだった。

昨年のイタリアGPから、オッシ・オイカリネンに代わって、ヤルノの担当をエンジニアを務めるジャン・ルカは、13周目から無線で弱音を吐くヤルノに対して、こう言うのだった。「わかった。でも、ほかのドライバーもいまみんなラップタイムが落ちている。ヤルノおまえだけじゃない。大丈夫だ。後ろにいるウェバーもわれわれと同じ作戦だ。ここが踏ん張りどころ。耐えるんだ、頑張れ」

それから数周後、ヤルノのペースは回復(写真右)。ウェバーとの激闘を制したヤルノは、ピットに戻ってくるなり、エンジニアにこう言ったという。

「ウチのクルマがこんなにいいパフォーマンスを発揮するとは思っていなかったよ。みんないい仕事をしてくれた。今日のセッティングはスポット・オン(バッチリ)だったよ」


次回、GP Diaryは6月22日に更新の予定です。
お楽しみに。

ハートフル

2007年6月22日

「ラルフの調子はどうだ?」。アメリカGPで日本から毎夜、インディアナポリスにいる山科忠TMG副会長に電話を入れていたのが、冨田務TMG会長だった。カナダGPを最後に現場を去った冨田だが、書類上はアメリカGPでのパナソニック・トヨタ・レーシングのチーム代表は冨田だった。冨田が電話口で心配していた内容の多くは、ラルフに関することだった。

「土曜日の予選では、ヤルノとコンマ1秒差のところまで来たな。これでやっと、ウチも2台で戦えるぞ」

アメリカGP予選でのラルフの復調を喜ぶ冨田。山科も同じ気持ちだった。山科は、昨年6月からパナソニック・トヨタ・レーシングのF1活動に参画し、昨シーズン終了後からドイツ・ケルンにあるTMGに赴任。今シーズンから全戦チームに帯同し、6月いっぱいで退任する冨田務TMG会長に代わって、会長としてまたチーム代表として、パナソニック・トヨタ・レーシングのリーダーとなる人物である。とはいえ、山科はこれまでの歴代のチーム代表とは違い、レーシング活動は今回が初めて。いわば異色の抜擢だった。しかし、これまで海外の営業活動で養ってきたコミュニケーション能力と読心術で、いまではパナソニック・トヨタ・レーシングの文字通り支柱となっている。山科はとにかく会話を大切にする。大金とウワサがうずまき、さまざまな国籍が集うF1の世界は、チーム内でも疑心暗鬼となりがちである。そんな淀んだ雰囲気に風穴を開けて、風通しのいいチームにしたいというのが山科の基本姿勢である。カナダでヤルノのアップライトが立て続けに壊れて、暗い雰囲気のピットにやってきてスタッフに声をかけていたのも、山科だった(写真上右)。

モナコで予選20番手に終わったラルフに、チームのスタッフが落胆しなかったと言ったら嘘になる。しかし、パナソニック・トヨタ・レーシングがF1に参戦する前からF1を走り、そして6度も優勝を経験しているラルフに対して、チームのスタッフが腫れ物に触るかのように接してしまうのは仕方のないことだった。しかし、そんな状況で孤立しているラルフを見るのが、山科には我慢ならなかった。

モナコの後、山科はラルフを呼び出し、こう言った。「どうなっているんだ。いくらなんでも、20番手はないだろ」。ラルフにも言い分があった。「オレだって、精一杯やっている。でも、モナコでは渋滞に引っかかった。よくデータを見てほしい」。しかし、山科は納得しない。「10年もF1を走っているベテランから、そんな言い訳は聞きたくない」。ラルフも反撃する。「それはアンフェアだ。事実は事実だ。きちんと見れば、わかる」。山科は「わかった。じゃ、データを調べて、また今度会おう」と言って、別れたという。

2人がその件で再び会話をしたのは、カナダGP日曜日の冨田チーム代表の送別会のときだった。送別会が始まる前、山科はラルフに謝った。「おまえの言うとおりだった。モナコでの20番手が仕方がなかったことは納得した。でも、それでいいのか。そうやって言い訳だけ言ってても、この世界で結果は出せないぞ」。ラルフは黙ってそれを聞き、2人は送別会に参加した。会の後、メディア向けに冨田とツーショット撮影をしている山科を、ラルフはポツンとひとりで待っていた。撮影を終えた山科は、寂しそうにしているラルフに気づいて、駆け寄ってこう言った。「こういうお別れ会っていうのは苦手でね。涙が出てくるんだよなあ」。すると、ラルフは「おまえにもハートがあるんだな」と、笑いながら山科に突っ込みを入れるのだった(写真下)。

そのレースで、ラルフは18番手からのスタートとなったが、粘り強い走りを見せて、開幕戦以来のポイントを獲得。荒れたレースに強いラルフらしい復活劇だった。

迎えたアメリカGP。予選で4戦ぶりに第2ピリオドに進出したものの、ヤルノが最終ピリオド進出したのに対して、ラルフは12番手で最終ピリオド進出はならなかった。「I'm sorry」と言って落ち込むラルフを、山科は「何いってんだ。上向きになってきたんだ。ここからだぞ」と言って励ました。しかし、翌日のレースでラルフは結果をつかむことはできなかった。1コーナーでブレーキをロックさせて、接触。リタイアに終わった。1コーナーから帰ってきて、再び「I'm sorry」と謝るラルフを、山科は次のように言って勇気づけたという。

「謝る必要はない。おまえは攻めたんだ。またフランスで頑張れば、いいじゃないか」

次回、GP Diaryは6月29日に更新の予定です。
お楽しみに。